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最近、色々自分が思うことを思うままに書きたいなと思っていて、でもFacebookだと誰かがコメントつけたりして、コメントがつくと何かしらレスポンスしないといけないような気がして、ちょっとしんどいなぁと思っています。

そこで思い出したこのblog。長い間放置してたのですが、気づいた誰かが読んでくれて、もし何かしらレスポンスしたいなと思って貰えたら、軽くレスポンスしてくれればいいかな、そんな感じで書き続けられたらいいなと思って書きます。Twitterだけで細々と流していくので、Twitterでメンションください。

働き方というか人間関係というか

タイトルは「働き方」としたのですが、給料がとか、仕事の内容が、ということよりもその中の人間関係のお話。自分は、同じ職場、同じ仕事のメンバーとは仕事の話だけじゃなく、仕事以外のことも話したりしながら、気軽に色んなことが話せる関係を作りたいと思っています。

例えば、お昼休みに一緒にお弁当を食べたり、アイスクリーム買ってきてみんなで食べたり、仕事が忙しい時にはちょっとした差し入れをしたり(食べ物の話ばっかりだな)。それ以外にも担当の仕事と直接関係ないことを勉強する時間を作ったりして、関心やスキルの幅を広げたり、もしくは広げるきっかけを作ったり。

業務時間中も音楽を流したり、クリスマスシーズンにはちょっとしたツリーを置いたり。そんな、肩肘張らない環境を作りたい。それは、単に表向きだけの話ではなくて、きっと仕事する人たちの内面にも作用するはずだと思います。

そんな環境の中で、困った様子だったりしても気軽に声をかけられて、悩みが相談できる、してもらえる、そんな環境を作れたら幸せだ。徒然なるままに書いているので、まとまりがなくてすみません。でも、そんな感じで思うことを書いていくつもりです。

photo credit: Relax via photopin (license)

このことを書くつもりはなかったのですが、最近目にした文書がありひとつの裏付けとして参照できるものだったので、記録として書いておくことにします。

私は、昨年末をもって約20年在籍した教会を去りました。現在は所属する教会がない状態です。私が所属教会を去る理由になったことのひとつがこの文書の内容と関係があります。先のリンクがオリジナルの文書ですが、いずれなくなってしまうかもしれないので、別の場所にアップロードしたものをこちらにリンクしておきます。

この文書は、私が所属して(いた)「日本聖公会」が今年のイースターに発信した書簡です。ちなみに「聖公会」とはイギリスの国教会で、その日本版が「日本聖公会」です。イギリスの国教会というと、つまり王室の教会でもあり、先日王女が生まれたジョージ王子の結婚式が挙げられた「ウェストミンスター寺院」も国教会の教会です。

書簡の内容はリンク先を読んでいただければわかりますが、私はこれに違和感を感じています。イースター「主の復活日」というキリスト教でクリスマスに並ぶお祝いの日に出された書簡なのに、タイトルが「戦後70年について」。タイトルが「戦後70年について」なのに、「福島の原発」のことにも触れられている。「戦後70年」も「福島の原発」も「イースター」には関係ないし、「戦後70年」と「福島の原発」もまったく関係がありません。なぜ、この関係のない3つのテーマがごちゃまぜになっているんでしょうね?まったく理解不能です。おそらく「戦後70年」や「福島の原発」に関連するメッセージを発信したい意図があったのでしょう。それに「イースター」を利用するなんて、もってのほかと思っています。

実際、教会に行くとお説教の時間に「憲法第9条」「従軍慰安婦」「機密保護法案への懸念」などの話がよくありました。それぞれのことについて、「何がどうあるべきか?」を語るつもりはありませんが、そもそも教会というのは、そういった話を聞くところなのでしょうか?そもそも、教会というのは政治的な意図を発信したり議論する場なのでしょうか?キリスト教の教会へ行く方は、そんな話を期待しているのでしょうか?聖書の話をしてもらいたい、救いが欲しいと思っているのではないでしょうか?「改憲反対」のメッセージを聴くことで「心の平安」は得られるのでしょうか?

私の考え方としては、宗教団体が政治的な事案に関して特定の結論を「組織として」持つべきではないと思っています。これが「政教分離」の原則のはず。もちろん、その宗教の考え方から得られる結論が一致することはあるかもしれません。それは、「宗教上の考え方が一致した結果」であるべきであり、政治的な事案に関する結論は各個人が考えることであって、一部の人間が定めた結論を「組織としての考え方」として発信することは間違っていると思います。

誤解していただきたくないのですが、私は「改憲反対」とか「改憲賛成」という結論が自分と異なることを不満に思っているのではありません。そもそも「そういう議論をしたり、意見を発信することそのものが宗教団体のやることではない」と考えているということなのです。

「信教の自由」「言論の自由」ということが、変な解釈によって歪曲されていることを危惧します。

多くの方が抱えている問題だと思うのですが、私も自分自身を評価するということの難しさを感じています。

私自身、自分の自己評価が低いのだろうと感じています。いや、もしかしたらその評価は妥当なのかもしれないけれど、自分がそれを認めたくないだけなのかもしれない。いずれにせよ、自分に対してそれほど高い評価を与えていません。

自己評価が低いせいで、なんでも相手の都合とか状況に合わせようとしてしまうところがあります。例えば、相手が「忙しいだろうな」「私なんかに時間をかけさせては申し訳ないな」と思うと、申し出を断ったり極端に効率的なコミュニケーション手段に走ってしまったり。しかし、それが相手にとっては「ご迷惑なんだな」と感じさせてしまっていることがあるようで、そのことに後から気づくこともしばしば。

時には、遠回りをしても時間がかかっても、相手に迷惑をかけることがあってもよくて、むしろその方がよかったりすることもあるんだろうけれど、それができずにいます。例えば、「今度、ご飯行きましょう」「いついつ、お会いしてお話ししたいです」みたいなこと。

その理由もわかっていて、向こうから拒絶の意思を表明されるのが怖くて、今一歩踏み出せずにいるわけです。これってアドラー心理学の「劣等コンプレックス」の一種なのかもしれない。もちろん、本人はそのつもりなかったんですが。

このことについて、誰かと話をしたい、です。