今、ネットで「のまネコ問題」というのが大きな話題になっていて、ひとつの事件になっています。おおまかに言うとこういうことです。

O-Zoneというモルドバ共和国のグループが歌っている「Dragostea Din Tei」という曲を日本で売り出すにあたって「のまネコ」というキャラクターを使用し、商標登録までしようとしました。

ところが、このキャラクターがネットの掲示板で使われている「モナー」というネコのキャラクターにそっくりで、ネットのコミュニティで育てたキャラクターを一企業が営利目的に使用するのはけしからんとネット上で反発が起こり、それに対してavexが「モナーにインスパイアされて制作したが、モナーの使用を制限するつもりは無い」とのコメントを出したのが、「当たり前だ」と反発を生む結果になって、さらに大問題になっていったということです。

普段は、ネットユーザーを音楽を盗み著作権を侵害する盗人集団のように取り扱う音楽業界の一企業が、逆にネットで考案された著作物を無断で私物化しようとしたところにネットコミュニティが反発したという事件です。

しかし、のまネコにはもう一つ問題があると思うのです。仮にのまネコが完全なavexのオリジナルキャラクターであったとしても、です。
この曲は、歌詞が変な日本語に聞こえる「空耳ソング」ということであるユーザーが作ったパロディFLASHがネットで話題になりました。avexがこれをこの曲のプロモーションに利用したのですが、当然ながらこのFLASHの内容はオリジナルの歌詞とは大きくかけ離れたもので、邦題も「恋のマイアヒ」という原題(直訳:菩提樹の下の恋)となんら関連性の無いタイトルにし、変な日本語で聞こえる歌詞を面白おかしく取り上げて、話題を呼びヒットさせました。

しかし、オリジナルのアーティストはこれを喜んでいるのでしょうか?真面目な恋を歌った歌を日本ではパロディソングの様に取り扱い販売しているのです。オリジナルのアーティストはこの様な形で日本で紹介されることを望んだのでしょうか?
著作権者が権利を主張する時には、オリジナル性はもちろん表現方法など細かいところまで権利を主張します。ですので、少しでも改変して利用しようものなら、著作権の侵害だということで騒ぎ立てます。
でも、自分たちはそんなことはおかまい無しに、オリジナルの内容とは関係の無い表現方法でプロモーションしているのです、あまりにも勝手過ぎやしませんか?結局は自分たちの利益になるようにしか考えていない、権利というものを真剣に考えていないと思います。

アーティストの表現する権利を踏みにじる音楽業界(レコード会社等)には、著作権を語り、主張する資格なんて無いと思いませんか?

私の娘が通う小学校では、2年前から参観日には運動場を駐車場として開放しています。というのも参観日に車でくる保護者が多くて、近くの役場の駐車場にとめたり、路上駐車したりということで周囲に迷惑をかけることがあったため運動場を使わせているらしいのです。
でも、それっておかしくないですか?子供たちは毎日歩いて通っているのです、子供の足で。なのになぜ保護者は車で学校へ行くのでしょう?なぜ運動場を駐車場の代わりにしなければならないのでしょう?

私は大阪の小学校に通っていましたが、参観日に自転車がずらっと並ぶことはあっても車が運動場に入ってくることなんてありませんでした。私が子供の頃と今とを比べれば、各家庭の車の所有状況も違うでしょうが、多分そういう問題ではなさそうです。奈良に住んでいると車というのものが生活の基本にあることがよくわかります。

私が住んでいる周辺でもちょっと歩いて買い物に行ってきますというようなところはありません。一番近いスーパーやコンビニでも歩けば20〜30分はかかります。もちろん、自転車という選択もありますし、自転車を使っている方も多く見かけますが、ほとんどは車を使うことが多いのです。車が日常の足と化していて、それが学校へ車で行くということに抵抗を感じさせなくしてしまっているのかもしれません。

私が通っていた小学校では、雨が降ると運動場の真ん中に赤い旗が立ちました。この旗が立っている時は、運動場の中を横切ってはいけませんでした。校舎に向かう時も運動場の端を通って行かなければならなかったのです。これは、雨の日に運動場の中を歩くとデコボコができてしまい、それが乾くとそのままの状態で残ってしまうことを防ぐため、運動場の状態を悪くしないためのルールでした。雨の日に運動場の中を歩くと放送ですぐその場で注意されたものでした。

運動場に車が入れば、雨の日でなくても状態は悪くなります。雨の日なら尚更です。それなのに、そこを車で入っていくなんて信じられません。確かにうちからでも学校は歩いて20分かかりますし、もっと遠い方もいらっしゃるので大変だというのはわかりますが、学校まで徒歩や自転車で行くのが面倒だから迷惑を承知で車で行ってるのなら、子供に大して偉そうにいう資格はありません。もう一度考え直していただきたいものです。

ここ数年、年に数回は子供や小学校をターゲットにした殺傷事件が発生し、社会問題の一つとなっています。学校に門扉を設置したり、警備員を常駐させるなどの対応を取っている学校や地域もたくさんあり、地域の協力などもあって事件の再発防止に努力していることが報道されています。一方で、こういった事件の報道の中で特に大きく取り上げられる部分に次のような内容があります。

  ・殺害現場や発見時の被害者の様子などの事件の凄惨さ
  ・遺族、家族や友人などが悲しみに暮れる様子などの事件の悲劇性

でも本当にこういったことを報道する必要があるのでしょうか?私は疑問に思います。

“事件の凄惨さ”とは、事件が発生した現場の様子、被害者が発見された時、殺傷された時の様子を指します。
これらのことは事件発生直後から繰り返し事細かに報道され、挙げ句の果てには、犯罪心理学の先生を引っぱりだし犯人の人格や性格などの分析を始めます。

そういった情報が私たちに必要なのでしょうか?子供が殺された時、その時の様子がどうであれ悲しい出来事であり、憎むべき犯罪であるこには変わりませんし、その時の状態をこと細かに伝えられても、私たちにはどうしようもありません。

次の”事件の悲劇性”とは、被害者の家族や友人の悲しみに暮れるコメント、お通夜やお葬式の時の悲しげな様子を指します。
自分の家族が殺害されたということだけで、その悲しみや怒りは十分に理解できますし、それをこと細かに伝えられてもそれで再発防止の一助になるとも思えません。

言葉は悪いかもしれませんが、これらの報道は単に事件を”ネタ”として扱っているだけなのではないかと思われるのです。ワイドショーでは、芸能人の話題やスポーツの話題とならんで一つの話題として扱っているだけにしか見えませんが、そんな報道に意味は感じません。むしろ、これらのことが報道されることによって類似事件の発生を呼び起こすのではないかという心配があります。同じような事件が続発する現在、次の事件を起こす可能性の人物がこの世の中にはいるかもしれません。これまでもずっと続いているのですから、まだ可能性はあると考えた方が良いのです。そんな状態で、事件の凄惨さや悲惨さを過剰に報道することはこういった潜在的な犯罪者を刺激し、新しい事件の発生に繋がるのではないかという懸念の方が大きいのです。

ゲームやインターネット等のメディアを事件と関連付け、まるで事件の要因となっているかの様に報道しているメディア(特にテレビ)には、他のメディアを批判する前にまず自分たちの報道内容が事件に与える影響を考え直していただきたいものです。