会社から帰ってご飯を食べ終わったら後半戦がスタート、すっかり見入ってしまいました。ゴール前まで何度も運びながらゴールが決まらない。
イライラしながら見てましたが、後半ロスタイムで勝ち越しゴール、思わず両手を上げて「やったー」と叫んでしまうと「お父さん子供みたい」と里紗に言われてしまいました。世のお父さん方も子供になった瞬間ではないかな。

ここ数年、年に数回は子供や小学校をターゲットにした殺傷事件が発生し、社会問題の一つとなっています。学校に門扉を設置したり、警備員を常駐させるなどの対応を取っている学校や地域もたくさんあり、地域の協力などもあって事件の再発防止に努力していることが報道されています。一方で、こういった事件の報道の中で特に大きく取り上げられる部分に次のような内容があります。

  ・殺害現場や発見時の被害者の様子などの事件の凄惨さ
  ・遺族、家族や友人などが悲しみに暮れる様子などの事件の悲劇性

でも本当にこういったことを報道する必要があるのでしょうか?私は疑問に思います。

“事件の凄惨さ”とは、事件が発生した現場の様子、被害者が発見された時、殺傷された時の様子を指します。
これらのことは事件発生直後から繰り返し事細かに報道され、挙げ句の果てには、犯罪心理学の先生を引っぱりだし犯人の人格や性格などの分析を始めます。

そういった情報が私たちに必要なのでしょうか?子供が殺された時、その時の様子がどうであれ悲しい出来事であり、憎むべき犯罪であるこには変わりませんし、その時の状態をこと細かに伝えられても、私たちにはどうしようもありません。

次の”事件の悲劇性”とは、被害者の家族や友人の悲しみに暮れるコメント、お通夜やお葬式の時の悲しげな様子を指します。
自分の家族が殺害されたということだけで、その悲しみや怒りは十分に理解できますし、それをこと細かに伝えられてもそれで再発防止の一助になるとも思えません。

言葉は悪いかもしれませんが、これらの報道は単に事件を”ネタ”として扱っているだけなのではないかと思われるのです。ワイドショーでは、芸能人の話題やスポーツの話題とならんで一つの話題として扱っているだけにしか見えませんが、そんな報道に意味は感じません。むしろ、これらのことが報道されることによって類似事件の発生を呼び起こすのではないかという心配があります。同じような事件が続発する現在、次の事件を起こす可能性の人物がこの世の中にはいるかもしれません。これまでもずっと続いているのですから、まだ可能性はあると考えた方が良いのです。そんな状態で、事件の凄惨さや悲惨さを過剰に報道することはこういった潜在的な犯罪者を刺激し、新しい事件の発生に繋がるのではないかという懸念の方が大きいのです。

ゲームやインターネット等のメディアを事件と関連付け、まるで事件の要因となっているかの様に報道しているメディア(特にテレビ)には、他のメディアを批判する前にまず自分たちの報道内容が事件に与える影響を考え直していただきたいものです。